20161016

 好きとは何だろうと思うことが多いです。

 およそ子どもではいられない年齢になってくると共に、好きについてよく分からなくなってきているところがある。年を重ねるほどにどんどん理屈っぽくなって、すべてに理由がほしくて、我ながらつまらない人間になってきたなと思います。子どもの頃の方がよく分かっていたような気がするな、どうだろう。
 数年前までは真っ白なキャンバスに好きな色だけを、色のまま散らばせることが好きだった。自分のえがくものに説得力はいらないと思っていた。可能性だけがほしかった。
 今は全く逆で、真っ白なキャンバスの面積をどんどん削っていって、可能性を削って確定性へ変えていくのが大好きです。小さな可能性と、強い説得力がほしいと思う。偶然を名乗る運命が物語には常に必要だとさえ思う。もしかすると、それを自分に求めているのかもしれない、とも思います。こういう話をするのはちょっと恥ずかしいな。
 好きです。絵を描くことが、文を書くことが、物語を紡ぐことが、ものをつくることが。
 好きって何だろうと思うんです。私がつかう「好き」という言葉は、誰かが思う「好き」よりきっともっと、ずっとずうっと重たいものかもしれないから。
 私にとって「好き」とは、しなければ呼吸が止まりそうなもの。なければ死んでしまいそうなもの。心が震えて涙が出るもの。どうしてもそこには届かなくて悔しくて、心臓が燃えそうになるもの。叫びたくなるもの。歌いたくなるもの。落としたくないもの。潰したくないもの。むしろ潰したいときもあるもの。抱きしめたいもの。食べてしまいたいもの。そのものの前では言葉など無力だと思うもの。それでも言葉にしたいと思うもの。言葉にしないで、自分だけのものにしたいと思うもの。分からない、とにかく、命が求めているものだ。
 恋に近いのだろう、と思うこともあります。恋についても自分は、よく分かっていないのだと思うのですが。
 好きなもののために泣きます。怒ります。悔しいと思います。怖いと思います。憧れます。何か、ごちゃごちゃ、いろいろ思います。それを上手く語る言葉を私はまだ持っていません。自分の語る好きには、いろんな色が混じっているのだろうと思う。それが美しい色になっているのか、濁っているのかは分からないけれど。それはまあ、どっちでもいいや。
 でも、そうだな。
 私が好きだと思ったもの、尊いと、愛しいと思ったものを、私の隣の人がそう思うとは限らない。心とか感情ってそうだよね。私が楽しいときに、あなたが楽しいとは限らないし、あなたが悲しいときに、私が悲しいとは限らない。寂しい? 私は時々寂しくなったりします、実は。恥ずかしいんだけどね。だから、だからこそ、私は、私が寂しいって思ったこと、楽しい嬉しい悲しい悔しいって思ったこと、愛しい、尊いと思うことをえがきます。そして、きっと、あなたにもそう思わせてみせます。私じゃあなくて、私のえがく物語で。それこそ表現! あなたの心を、私はきっと此処まで連れてきてみせる。
 私はえがく人が好きだ、えがいたものが好きだ、えがくことが好きだ! 好きって何だ! でも、好きだ! 何かよく分かんないけどそんな感じだ! 今日の話はこれでおわり! 聞いてくれて、ありがとう!


綿谷真歩

ロング・ジャーニー

綿谷真歩と申します。作品や記事は増えたり消えたり! 本拠地(創作物倉庫):https://note.mu/hallo_my_planet